長年ANAでVIP専用機のCA(キャビンアテンダント)を長年努めた人の体験談です。
ある日のフライトの離陸直前のこと。
飛行機が離陸するときには、お客様の全員が、シートベルトを締めたことを確認する必要があるのですが、その日はなかなか「全員、シートベルト着用済み」の連絡が入りません。
チーフパーサーだった彼女が、客席に行ってみると、CAが困り顔で報告してきました。
「ご夫婦のお客様なのですが、奥様が大きな可愛らしい人形をしっかりと胸に抱いていて、いくら言っても離してくれず、その人形ごとシートベルトをしてしまっているんです。これでは『安全確認』の報告が出せません」
話を聞いた彼女は、そのお客様の席まで行くと、しゃがんで奥さんと同じ視線の高さにして、彼女の目を見ながら、こう言ったのです。
「お客様のお子様は、おとなりの空席に座らせてあげて、お子様にもシートベルトをかけてあげましょう。お母様は、そのままご自身で、ベルトをなさってくださいね」
その言葉を聞いた奥さん。
「わかりました」と答えると、素直にとなりの席に、人形を置いたそうです。
こうして、人形にもお客様にもシートベルトを着用していただき、飛行機は無事に離陸することができたのでした。
後日、彼女は、人形を抱いていた奥さんのご主人から、丁寧な手紙をもらいます。
その手紙には、こんなことが書かれていました。
「家内は以前に子どもを亡くし、それ以来、あの人形を片時も離さなくなりました。外出の時も、一緒でないと出歩けなくなってしまったのです。あの日、あなたに『お人形』ではなく『お子様』と言っていただいて、家内は嬉しかったようです。『お母様』と呼ばれたのもすごく嬉しかったようで、あれ以来、少しずつ落ち着いてきて、最近は人形を置いて外出することができるようになりました。本当にありがとうございました」
彼女は、このお客様のことについて、次のように語っています。
「お客様のデリケートな心に寄り添うことで、ずっとかたくなだった心も、ほどけることがあることを、私も学びました。
人には、誰にでも、他人にはうかがい知ることができない、事情があるものです。
その事情がわからなくても、相手の心に寄り添い、その人の事情を許容してあげる、心の広さを持ちたいものです。